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山と森からの作品集 「里ネット」ニュ−スから
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2004年2月22日
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(1) 私の仕事
後の世に伝えたいことがあるから私は行動している。教えておきたいことが
あるから講座を開いている。しかし、伝えたいこと、教えたいことを受け継い
でくれる人、聞いてくれる人が居なければ、何一つ後の世に残すことは出来な
い。
振り返ってみると、私の人生は多彩で、劇的ではあったが「地味」の二語に
尽きる。華々しさ、とは縁の遠い泥臭いものに終始してきたようだ。底辺の泥
沼をはいずり回っているようなものである。そう、有明海の干潟の泥の中をの
たうち回るムツゴロウのような生物に似ている。
本当に偶然ではあるが、社会人になってから14年間は自分と家族の生活の安
定ために、死にものぐるいで働いた。天がそれを哀れんだのであろうか、生死
の分かれ目になるような出来事から大きな怪我をした。仕事は続けられなくな
ってやめた。
それから14年は社会のために働いた。今日の教育制度の中で取り残されかけ
ている子ども達に力添えをして、上の学校へ送り出す仕事である。学校では教
えてくれない古人の知恵を教え、物覚えの悪い子ども達に覚えやすいようにと
工夫をして、力添えをした。子どもは社会の宝とは昔からの伝えである。その
宝を大事にすることを心がけてきた。
平成3年に森林インストラクタ−の制度が発足し、その資格をえた。ちょう
どその頃人に騙されて、社会のために働く場を失なった。これも天の配慮だっ
たのであろう。
そして今は、「未来のための仕事」をしている。収入がないから、仕事では
ないと家族から言われ続けているが、今更後戻りは出来ない。それは、「森づ
くり」の仕事である。今はやりの森林ボランティア活動である。尤も私が活動
を始めた頃は森林ボランティアなどと言う言葉はなかったし、ボランティアと
いう言葉も使われてはいなかったと思う。
日本人が森を背景に生活を初めてから、どれほどの時間が経過しているのか
を私は知らない。しかし、考えてみると森を巧みに利用し、滅ぼすことなく維
持してゆく技術や情報は、かなり高い水準になっている。また、森の利用につ
いてのル−ルも情報も沢山蓄積されている。この技術、ル−ルそして情報を生
かすことにより、豊かな森を作り出し、生物の多様性を豊かに保つことができ
る。
今、それらの技術や情報が農林業の衰退とともに滅び去ろうとしている。そ
れを大切に維持し、後世に伝えるのが、古希を迎える年齢の私に、天が命じ天
が課している仕事なのだと思っている。(2004/02/22)
(注)古稀
唐の詩人杜甫の「曲江詩」の一節に、「人生七十古来稀」(人生七十は
古来まれなり)とあります。この詩に基づき、七十歳(数え年)を「古稀」
また「古希」と言いならわしてきました。
2004年3月8日
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(2) 私はわたし
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小学生のために!
私は森林インストラクタ−であり、環境カウンセラ−です。しかし、そうい
う資格など、どうでもよいと思っています。資格でものを教えたり、行動した
りしているのではないからです。ものを覚えるにもそのような資格は無用です。
でも、世間の人は「大森孟」本人より、「森林インストラクタ− 大森孟」
や「環境カウンセラ− 大森孟」を高く評価します。「大学教授」や「大臣」
などならもっと高い評価をうけることでしょう。だから、資格や肩書きはとて
も便利です。そこで私は森林インストラクタ−や環境カウンセラ−の資格を利
用しているのです。
この他にもCONEコ−ディネ−タ−、林業改良普及指導協力員、読売・日本テ
レビ文化センタ−講師などという肩書きもあるし、元朝日カルチャ−センタ−
千葉講師、元東京都奥多摩都民の森森林インストラクタ−などという肩書きも
あります。
でも、そんなものたくさんつけても仕方がありません。みなさんの前でもの
をいっているのは、ただの「大森孟」なのです。みなさんに何かをお教えして
いるのは、肩書きではなく、正真正銘の「大森孟」にすぎません。ただし、人
にものを教えるからには、ものをよく知っていなければなりません。それがた
いへん大切で、そのためにはおおいに勉強しなくてはなりません。
勉強は三歳、四歳の子でも、十歳、十一歳のみんさんのような生徒さんでも
できますし、私のような七十歳近い年寄りでもできます。しかし、ものを覚え
るには年齢があります。
昔の人は、「三つ子の魂百まで」といいました。三歳、四歳のころ学んだこ
とは百歳になっても忘れませんよ、という意味です。このことわざの通りなの
です。三歳、四歳の子、十歳、十一歳のみなさんの方が私たちより、はるかに
よく覚え、覚えたら最後、いつまでも忘れないのです。
私の父は今年九十八歳になります。九十歳近くなったころから、ボケ始め、
今、ご飯を食べ終えたばかりなのに、「今日は朝から何も食べていない」など
というぐらいですが、子供のころの田舎のことやそのころの友達のことなどを
聞くと実によく覚えていて、嘘のようにきちんと答えてくれます。皆さんぐら
いの年齢のころの思い出はしっかりと覚えており、その話を聞くととてもぼけ
ている人とは思えぬほど正確に教えてくれます。まことに不思議です。
みなさんもしっかり勉強して、しっかりとものを覚えてください。勉強は死
ぬまでできますが、しっかりと覚えることができるのは二十歳ぐらいまでのよ
うです。私がみなさんにお教えするために使っている知識もほとんど若いころ
の勉強で得たものです。
江戸時代の学者も申し合わせたように「七歳から二十歳までは、寝食も忘れ
るほどに勉強しなさい。」といっています。わたしは、この時期、よい学校と
よい先生に恵まれ、しっかりと勉強することができました。そのお陰で、今こ
うして皆さんと楽しい一日を送ることができます。(2004/03/08)
2003年07月12日
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(3)川の名は「ヘえたろう」
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筆者の板橋の家は昭和29年に、茨城県北の裕福な農家の「隠居所」(江戸時
代の建物)を現在地に移築したものです。家の東側には流れがありました。そ
の当時、今のどぶは、川(全長約500m)であり、澄んだ水が流れ、生物がたく
さん生息していました。
日曜日ともなると近隣にあった都営住宅、大木伸銅の社宅や高砂鐵工の社宅
の子供たちが釣りをしに集まってきました。川には、ヌマエビなどのエビの類、
アメリカザリガニ、クチボソ、メダカ、ドジョウ、イモリ、カエルの類などが
いました。岸辺にはマムシ、ヤマカガシ、アオダイショウ、シマヘビが生息し
ていました。ソウギョもいるといわれていましたが真偽の程はわかりません。
冬の夜にはカモがいつのまにか集まり、ねぐらにしていたのかもしれません。
学校からの帰りに、近道をして、対岸の草原を横切り、両岸から突き出た土手
を飛び跳ねて来ると、夜毎カモが驚いて飛び立ったものです。
両岸にはさまざまな草が茂り、川の西岸はキショウブ、東岸はアシが茂って
おり、季節になるとヨシキリがさえずりました。キショウブは今残っている筆
者の家の東の部分から上流にあり、荒川の土手の下まで自生しておりました。
(注)昔の川の唯一ののこりの部分で、筆者の父が40年にわたって、キショ
ウブを保護してきましたが、近隣に家を建て引っ越してきた者たちが、父
の弱ったのに付け込み大半を埋め立ててしまいました。さらに、今年にな
り、理不尽にも残る部分をもいつの間にか埋め立て、川の名残りもキショ
ウブも壊滅状態になってしまいました。どうも最近の日本人は悪賢いもの
が多すぎます。
この川の名を徳丸や四葉の人たちは「へえたろう」といっていました。練馬
北町から、東武練馬駅の下の低地を流れ、大東文化大学のあたりから荒川の氾
濫原へ出て次第に西へと蛇行し、西台町と徳丸本町、徳丸町の境をなして、板
橋区のごみ焼却場のあたりへと流れ、新河岸川へ下りていました。対岸を見る
と、同じ位置へ筆者の家の横の流れが下りていました。この部分は日清製紙が
できたときに、暗渠となり、構内へ取り込まれてしまいました。
この川は、実は一つの川で、新河岸川の開鑿の前までは荒川へ流れ込んでい
たそうです。それが、新河岸川で切断され、荒川の堤防工事(明治42年の台
風ののち)で切断されて、小さな独立河川になったのです。水源は、筆者の家
の西側の道路が北上して荒川の土手につきあたるところで、川を隔てて対岸に
はクヌギの林がありました。その辺から湧き出た水が、林の縁を大きくS形に
蛇行して流れ、筆者の家の東でまた、S字に蛇行していました。
キショウブは、ほとんど切れ目なく筆者の家の東側の岸辺まで続いて生えて
いました。
(注)昭和三年に発行された、高橋源一郎の「武蔵野歴史地理」第一冊所載の
東京北郊図には、新河岸川は載っておらず、荒川が南へ大きく蛇行してい
る事がわかります。その痕跡は昭和40年代までは残っていましたが、今
は埋め立てられてしまい、運動場になっています。新日鉄の工場のところ
です。旧日本特殊鋼管と高砂鐵工の間です。
家は、林の東にYさん、Yさんへ入る道の南側に、西からMさん、Kさん、
MTさんと並んでいました。Mさんの南が筆者の家です。筆者の家の南200
メ−トルぐらいの川の東岸のクヌギ林の中にも1軒家がありましたが名を思い
出せません。
周囲は耕作を放棄した草原、畑や沼が広がっており、筆者の家の縁側に寝転
んでいても富士山が見え、のどかな風景でした。このような風景を楽しんだの
でしょうか、大正年間にカモを撃つ、といって「鉄砲亀さん」(徳丸辺の農家
の人たちがこう言い伝えておりました。)という方が別業を作りました。それ
がMさんの家です。
この家は水害に備え、盛り土した上に建っていました。一昨年老朽化して取
り壊され、整地されてなくなりましたが、この辺りで一番古い家でした。昭和
33年の大水害のとき、筆者の家を含め、床上まで水につかりましたが、Mさ
んの家だけは床下にも水が上がらなかったと思います。昔の人は知恵で、こう
いうことを知っていたのです。
さて、この川を「へいたろう」というのはなぜでしょうか。これも昭和30
年ごろ、徳丸界隈の古老がいっていたことですが、洪水の後、「もう水もへえ
たんべえ。」って出かけてみると、いっこうに水が引いていない、というので、
誰言うともなく、あの流れを「へえたろう」って呼ぶようになったそうです。
今ではもと農家であった人たちも知らないのではないかと思います。
(注)この川について、新編武蔵風土記稿には記述はない。また、高橋源一郎
の「武蔵野歴史地理」第一冊にも徳丸原については詳しいが、水利につい
ての記載は見られない。
(2004/02/26)
山と森からの作品集
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注意:文章中などに利用される方は声をかけてくださいね。
執筆:大森 孟
自己紹介:私は1935年生まれ。森林インストラクタ−で環境カウンセラ−
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