大 森 孟 の ペ − ジ 

     
   

  実績と定評を誇る、森林インストラクタ−「大森 孟」の
 CD-R: 森林インストラクタ−養成講座 
  since 1999-06-01 

  山と森からの作品集  

 
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  山と森からの作品集           「里ネット」ニュ−スから
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 2004年2月22日 
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 (1) 私の仕事 
    
  後の世に伝えたいことがあるから私は行動している。教えておきたいことが
 あるから講座を開いている。しかし、伝えたいこと、教えたいことを受け継い
 でくれる人、聞いてくれる人が居なければ、何一つ後の世に残すことは出来な
 い。
  振り返ってみると、私の人生は多彩で、劇的ではあったが「地味」の二語に
 尽きる。華々しさ、とは縁の遠い泥臭いものに終始してきたようだ。底辺の泥
 沼をはいずり回っているようなものである。そう、有明海の干潟の泥の中をの
 たうち回るムツゴロウのような生物に似ている。
  本当に偶然ではあるが、社会人になってから14年間は自分と家族の生活の安
 定ために、死にものぐるいで働いた。天がそれを哀れんだのであろうか、生死
 の分かれ目になるような出来事から大きな怪我をした。仕事は続けられなくな
 ってやめた。
  それから14年は社会のために働いた。今日の教育制度の中で取り残されかけ
 ている子ども達に力添えをして、上の学校へ送り出す仕事である。学校では教
 えてくれない古人の知恵を教え、物覚えの悪い子ども達に覚えやすいようにと
 工夫をして、力添えをした。子どもは社会の宝とは昔からの伝えである。その
 宝を大事にすることを心がけてきた。
  平成3年に森林インストラクタ−の制度が発足し、その資格をえた。ちょう
 どその頃人に騙されて、社会のために働く場を失なった。これも天の配慮だっ
 たのであろう。
  そして今は、「未来のための仕事」をしている。収入がないから、仕事では
 ないと家族から言われ続けているが、今更後戻りは出来ない。それは、「森づ
 くり」の仕事である。今はやりの森林ボランティア活動である。尤も私が活動
 を始めた頃は森林ボランティアなどと言う言葉はなかったし、ボランティアと
 いう言葉も使われてはいなかったと思う。
  日本人が森を背景に生活を初めてから、どれほどの時間が経過しているのか
 を私は知らない。しかし、考えてみると森を巧みに利用し、滅ぼすことなく維
 持してゆく技術や情報は、かなり高い水準になっている。また、森の利用につ
 いてのル−ルも情報も沢山蓄積されている。この技術、ル−ルそして情報を生
 かすことにより、豊かな森を作り出し、生物の多様性を豊かに保つことができ
 る。
  今、それらの技術や情報が農林業の衰退とともに滅び去ろうとしている。そ
 れを大切に維持し、後世に伝えるのが、古希を迎える年齢の私に、天が命じ天
 が課している仕事なのだと思っている。(2004/02/22)
 (注)古稀
    唐の詩人杜甫の「曲江詩」の一節に、「人生七十古来稀」(人生七十は
   古来まれなり)とあります。この詩に基づき、七十歳(数え年)を「古稀」
   また「古希」と言いならわしてきました。


 2004年3月8日
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 (2) 私はわたし     
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  小学生のために!

  私は森林インストラクタ−であり、環境カウンセラ−です。しかし、そうい
 う資格など、どうでもよいと思っています。資格でものを教えたり、行動した
 りしているのではないからです。ものを覚えるにもそのような資格は無用です。
  でも、世間の人は「大森孟」本人より、「森林インストラクタ− 大森孟」
 や「環境カウンセラ− 大森孟」を高く評価します。「大学教授」や「大臣」
 などならもっと高い評価をうけることでしょう。だから、資格や肩書きはとて
 も便利です。そこで私は森林インストラクタ−や環境カウンセラ−の資格を利
 用しているのです。
  この他にもCONEコ−ディネ−タ−、林業改良普及指導協力員、読売・日本テ
 レビ文化センタ−講師などという肩書きもあるし、元朝日カルチャ−センタ−
 千葉講師、元東京都奥多摩都民の森森林インストラクタ−などという肩書きも
 あります。
  でも、そんなものたくさんつけても仕方がありません。みなさんの前でもの
 をいっているのは、ただの「大森孟」なのです。みなさんに何かをお教えして
 いるのは、肩書きではなく、正真正銘の「大森孟」にすぎません。ただし、人
 にものを教えるからには、ものをよく知っていなければなりません。それがた
 いへん大切で、そのためにはおおいに勉強しなくてはなりません。
  勉強は三歳、四歳の子でも、十歳、十一歳のみんさんのような生徒さんでも
 できますし、私のような七十歳近い年寄りでもできます。しかし、ものを覚え
 るには年齢があります。
  昔の人は、「三つ子の魂百まで」といいました。三歳、四歳のころ学んだこ
 とは百歳になっても忘れませんよ、という意味です。このことわざの通りなの
 です。三歳、四歳の子、十歳、十一歳のみなさんの方が私たちより、はるかに
 よく覚え、覚えたら最後、いつまでも忘れないのです。
  私の父は今年九十八歳になります。九十歳近くなったころから、ボケ始め、
 今、ご飯を食べ終えたばかりなのに、「今日は朝から何も食べていない」など
 というぐらいですが、子供のころの田舎のことやそのころの友達のことなどを
 聞くと実によく覚えていて、嘘のようにきちんと答えてくれます。皆さんぐら
 いの年齢のころの思い出はしっかりと覚えており、その話を聞くととてもぼけ
 ている人とは思えぬほど正確に教えてくれます。まことに不思議です。
  みなさんもしっかり勉強して、しっかりとものを覚えてください。勉強は死
 ぬまでできますが、しっかりと覚えることができるのは二十歳ぐらいまでのよ
 うです。私がみなさんにお教えするために使っている知識もほとんど若いころ
 の勉強で得たものです。
  江戸時代の学者も申し合わせたように「七歳から二十歳までは、寝食も忘れ
 るほどに勉強しなさい。」といっています。わたしは、この時期、よい学校と
 よい先生に恵まれ、しっかりと勉強することができました。そのお陰で、今こ
 うして皆さんと楽しい一日を送ることができます。(2004/03/08)


 2003年07月12日
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 (3)川の名は「ヘえたろう」
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  筆者の板橋の家は昭和29年に、茨城県北の裕福な農家の「隠居所」(江戸時
 代の建物)を現在地に移築したものです。家の東側には流れがありました。そ
 の当時、今のどぶは、川(全長約500m)であり、澄んだ水が流れ、生物がたく
 さん生息していました。
  日曜日ともなると近隣にあった都営住宅、大木伸銅の社宅や高砂鐵工の社宅
 の子供たちが釣りをしに集まってきました。川には、ヌマエビなどのエビの類、
 アメリカザリガニ、クチボソ、メダカ、ドジョウ、イモリ、カエルの類などが
 いました。岸辺にはマムシ、ヤマカガシ、アオダイショウ、シマヘビが生息し
 ていました。ソウギョもいるといわれていましたが真偽の程はわかりません。
  冬の夜にはカモがいつのまにか集まり、ねぐらにしていたのかもしれません。
 学校からの帰りに、近道をして、対岸の草原を横切り、両岸から突き出た土手
 を飛び跳ねて来ると、夜毎カモが驚いて飛び立ったものです。
  両岸にはさまざまな草が茂り、川の西岸はキショウブ、東岸はアシが茂って
 おり、季節になるとヨシキリがさえずりました。キショウブは今残っている筆
 者の家の東の部分から上流にあり、荒川の土手の下まで自生しておりました。
 (注)昔の川の唯一ののこりの部分で、筆者の父が40年にわたって、キショ
   ウブを保護してきましたが、近隣に家を建て引っ越してきた者たちが、父
   の弱ったのに付け込み大半を埋め立ててしまいました。さらに、今年にな
   り、理不尽にも残る部分をもいつの間にか埋め立て、川の名残りもキショ
   ウブも壊滅状態になってしまいました。どうも最近の日本人は悪賢いもの
   が多すぎます。
  この川の名を徳丸や四葉の人たちは「へえたろう」といっていました。練馬
 北町から、東武練馬駅の下の低地を流れ、大東文化大学のあたりから荒川の氾
 濫原へ出て次第に西へと蛇行し、西台町と徳丸本町、徳丸町の境をなして、板
 橋区のごみ焼却場のあたりへと流れ、新河岸川へ下りていました。対岸を見る
 と、同じ位置へ筆者の家の横の流れが下りていました。この部分は日清製紙が
 できたときに、暗渠となり、構内へ取り込まれてしまいました。
  この川は、実は一つの川で、新河岸川の開鑿の前までは荒川へ流れ込んでい
 たそうです。それが、新河岸川で切断され、荒川の堤防工事(明治42年の台
 風ののち)で切断されて、小さな独立河川になったのです。水源は、筆者の家
 の西側の道路が北上して荒川の土手につきあたるところで、川を隔てて対岸に
 はクヌギの林がありました。その辺から湧き出た水が、林の縁を大きくS形に
 蛇行して流れ、筆者の家の東でまた、S字に蛇行していました。
  キショウブは、ほとんど切れ目なく筆者の家の東側の岸辺まで続いて生えて
 いました。
 (注)昭和三年に発行された、高橋源一郎の「武蔵野歴史地理」第一冊所載の
   東京北郊図には、新河岸川は載っておらず、荒川が南へ大きく蛇行してい
   る事がわかります。その痕跡は昭和40年代までは残っていましたが、今
   は埋め立てられてしまい、運動場になっています。新日鉄の工場のところ
   です。旧日本特殊鋼管と高砂鐵工の間です。
  家は、林の東にYさん、Yさんへ入る道の南側に、西からMさん、Kさん、
 MTさんと並んでいました。Mさんの南が筆者の家です。筆者の家の南200
 メ−トルぐらいの川の東岸のクヌギ林の中にも1軒家がありましたが名を思い
 出せません。
  周囲は耕作を放棄した草原、畑や沼が広がっており、筆者の家の縁側に寝転
 んでいても富士山が見え、のどかな風景でした。このような風景を楽しんだの
 でしょうか、大正年間にカモを撃つ、といって「鉄砲亀さん」(徳丸辺の農家
 の人たちがこう言い伝えておりました。)という方が別業を作りました。それ
 がMさんの家です。
  この家は水害に備え、盛り土した上に建っていました。一昨年老朽化して取
 り壊され、整地されてなくなりましたが、この辺りで一番古い家でした。昭和
 33年の大水害のとき、筆者の家を含め、床上まで水につかりましたが、Mさ
 んの家だけは床下にも水が上がらなかったと思います。昔の人は知恵で、こう
 いうことを知っていたのです。
  さて、この川を「へいたろう」というのはなぜでしょうか。これも昭和30
 年ごろ、徳丸界隈の古老がいっていたことですが、洪水の後、「もう水もへえ
 たんべえ。」って出かけてみると、いっこうに水が引いていない、というので、
 誰言うともなく、あの流れを「へえたろう」って呼ぶようになったそうです。
 今ではもと農家であった人たちも知らないのではないかと思います。

 (注)この川について、新編武蔵風土記稿には記述はない。また、高橋源一郎
   の「武蔵野歴史地理」第一冊にも徳丸原については詳しいが、水利につい
   ての記載は見られない。
                   (2004/02/26)

 山と森からの作品集                
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  注意:文章中などに利用される方は声をかけてくださいね。
  執筆:大森 孟
  自己紹介:私は1935年生まれ。森林インストラクタ−で環境カウンセラ−
  


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 「山と森からの作品集」          「里ネット」の記録   
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 2004年3月6日 
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 (1) 仮想現実                 

  仮想現実、すなわち「バ−チャル・レアリティ−」という言葉は、コンピュ
 −タ−の世界ではよく使われます。しかし、有名な小説や詩歌の舞台になった
 からと言うことから、その主人公や作品の題名を地域の「愛称」あるいは森の
 「呼び名」に使うことはどうでしょうか。
  筆者は何年か前、狭山丘陵(埼玉県と東京都の都県境の丘陵)の東端にある
 八国山の古墳の前で、「猫バスの停留所はどこですか。」と聞かれてとまどっ
 たことがあります。テレビで馴染みのアニメ−ション「となりのトトロ」と現
 実が一緒になってしまった、三年生ぐらいの少女を伴った母親の質問でした。
  当時、環境保全運動をしていたあるグル−プが、そのアニメ作者の同意の下
 に、作品の舞台となったこの地域の森を「トトロの森」と呼び、トラスト運動
 を始めたことが、仮想と現実の混同を生み出したのです。それに行政までが尻
 馬に乗り、さらに混乱を引き起こしたようです。
  停留所を聞かれた私も、一瞬たじろいだが、何日か前に孫と一緒になって見
 たテレビの映像を思い出し、病院(七国山病院のモデルになった)に最も近い
 高圧送電線の鉄塔をそれだと教えて、思わず苦笑しました。
  それから何年か経ち、ある公民館から講演依頼があり、「トトロの森と森林
 ボランティア」について話をしてほしいと言うことでした。これには困ってし
 まいました。「トトロの森」など存在しないからです。一団体の恣意でつけら
 れた名前が「一人歩き」しているだけなので、どうにも仕様がありません。
  仕方がないから、「トトロの森は存在しません。それはアニメ作者の仮想の
 世界であり、アニメの画像から見る限り、あれは常緑の森であり、私たちの前
 にある落葉樹の森とは異なる性質の森です。」と説明しました。
  その後で、落葉樹の森、すなわちコナラ・クヌギ人工林について話を展開し、
 その管理の仕方を話して持ち時間を使い切りました。
  このように、有名な作品の題名やそういう作品の主人公の名を、地域の名や
 森の名にすると、現実と仮想を混同してしまい、不都合なことを引き起こすこ
 ともあると思います。(2004/03/06)


 2004年02月27日 
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 (2)都市は山の亡霊

 都市は山の墓場である。山の亡霊である。
 コンクリ−トの元は山の石灰石であり、
 巌を砕いた砂礫であり、砂である。
 木材や水さえも山のたまものなのだ。
 都市には何一つ都市のものはない。
 都市にあるすべてのものは山からの借り物だ。

 昔から、都市で使うものは山から送られてくる
 木材、薪炭、食べ物は山の村から運ばれた。
 山の村人の勤勉と朴訥と無欲の賜物だ。
 田畑を耕す人も山で炭を焼く人々も
 ササには手を焼いた
 それなのに山の亡霊である都市では
 一面に笹を植え込んで感動している。

 勝手にするがいい!


 2003年03月10日
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 (3)カタクリの花

  万葉集には約4500首の歌が収められています。その中には、さまざまな階 
 層の人たちの歌があり、優劣も一通りではありません。その4500首のなかに、
 詠み込まれた草木の数は137種(藻類、コケ類、羊歯類も含む)で、歌の数は、
 1472首に上ります。
 (注)見解により、植物の種数および歌の数は、人により、ともに多少の異
   同があります。
  万葉集の植物を調べながら、気がついたのですが、植物の名というものは、
 随分古い時代からあったのだなあ、ということです。実は、日本書紀にも古
 事記にも、植物の名は出てきますし、風土記にも出てきます。
  庭に草木を植え、それを愛でる、あるいは特定の樹種を特に愛でるといっ
 た習慣も万葉集の時代には、上流階級では一般化していたのではないかと思
 います。
  そのように、草木について、深い嘆賞の心があったから、万葉集の中に、
 これほど多くの草木が読み込まれ、草木の性質をよく理解していたから、草
 木を比喩として詠み込んだのではないかと思います。
 
  ところで、カタクリの歌ですが、万葉集にはただ一首収められています。
 巻十九の大伴家持の次の歌です。ここではカタクリではなく、「かたかご」
 と詠まれています。 
  4143 もののふの八十をとめ等が汲みまがふ
     寺井の上のかたかごの花       大伴家持
   たくさんの少女たちが水を汲んでいるのかと見間違えてしまうような
   寺井の上のカタクリの花だなあ
  この歌は、大伴家持の作品の中では、できの良い歌だといえるでしょう。
 寺井は泉の名と思われます。色鮮やかな花の姿を少女に見立て、その形を水
 桶に見立てたもののように思われます。
  カタクリの葉の斑紋を「鹿の子」に見立て、堅香子ではなく、片鹿子だっ
 たのではないか、と珍説を称える向きもあるようですが、これには無理があ
 るでしょう。鹿の子は白斑ですから、黒い斑紋を鹿の子とは言わないと思わ
 れるからです。現代の人ならいざ知らず、かつての日本人はこのような無理
 な表現はしなかったと思います。
  カタクリはユリ科の植物で、山野に群生する多年草です。鱗片状の球根を
 有し、その球根から、良質の澱粉がえられ、それを「カタクリ粉」といいま
 した。
  花期は地域や標高によって異なりますが、3〜5月です。

  種子から発芽したカタクリの球根は、当初は土中の浅いところにあります
 が、次第に土中深く潜ってしまいます。これは牽引根が発達して、球根を引
 き込んでいくためです。8年を経過した頃花を開きます。当初、葉は1枚で
 すが、それが2枚となったとき花を開きます。             
  知里真志保博士によれば、アイヌ人は、カタクリをhure-epuy、すなわち、
 「赤い花」と呼んだそうです。根を臼で搗いてい「ちゃり」(笊)か「さら
 えぶ」(こだし)で漉して水に入れておくと「いるぷ」(澱粉)が沈殿しま
 す。水を何度も換え、澄んだら水を捨て水を捨てしているうちに、真っ白い
 澱粉ができます。これを粥の中に炊込んで「いるぷさよ」(澱粉がゆ)を作
 ったそうです。  (2003/03/10)

   城山カタクリの里
  青き葉を花の間にのぞかせて谷間を限り咲くオオシマザクラ
  わが前にしばしの時を眠り居る顎二重なる花いだく少女
  時すぎしカタクリ原を横切りてクロモジの花咲くに寄りゆく
  イワカガミの花にかがむもしばしにて白花カタクリ一つ見つけぬ

 2003年04月25日
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  (4)エコ・ツ−リズムとは

  皆さんは「エコ・ツ−リズム」についてご存知だろうか。最近、旅行会社 
 などが、パック旅行の宣伝に使い、マスコミにもぽつぽつ登場している。こ
 の「エコ・ツ−リズム」は、日帰りの旅行などでは、気ぜわしく、地域の特
 異な生態系などを正しく理解することができない、というので、その地域に
 滞在して、指導者のもとで、生態系に人工圧(負荷)をできるだけ加えない
 ように配慮しながら、ゆっくりと生態系を観察し、解説を受け、そのからく
 りを学ぶ「滞在型の観光」のことだ。
  本来の、つまり、カナダやコスタリカで実施されている「エコ・ツ−リズ
 ム」では、その地に何日も滞在する観光客に、単なる登山や観察会とは異な
 り、生態系に関しても、地域の民俗や文化に関しても、豊富な知識を持つ専
 門家が、引率あるいは指導にあたっている。指導者は、総合的な解説や指導、
 かなり踏み込んだ専門性のある解説や指導をおこないながら、生態系につい
 てこまやかに配慮をしつつ、時間をかけてゆっくりと観光客の案内をしてい
 る。観光客もつねにその指示にしたがって行動し、可能な限り生態系に負荷
 をかけないことが前提とされている。
  ところが、近頃、日本で「エコ・ツ−リズム」といわれているものは、日
 帰り旅行の延長に過ぎず、「エコ・ツ−リズム」というには値しない。滞在
 してゆっくりとその地域の自然や文化を学んでくるのではなく、宿泊しなけ
 れば、目的の、あるいはお目当ての「もの」が見られないから、宿泊をして
 いるに過ぎない。
  まさしく、滞在ではなく、宿泊なのである。内容も日帰り旅行と変わらな
 いのである。これは、諸外国で行われている「エコ・ツ−リズム」とは似て
 もつかないものなのだ。だから、雨でも危険をおかして、目的に向かって強
 行することになる。
 (注)雨中の登山
  これは、一昨年のことだが、箱根の金時山の下見にいったときのことで
 あるが、箱根についてみると雨である。しばらく、喫茶店に入り様子を見
 ながら、店主と他の客のやり取りを聞くともなしに聞いていた。店主は、
 「今日の雲行きでは一日降りですよ。」といっていた。
  何気なく外を見ると谷から水蒸気がどんどんあがっている。これは、雨
 が上がるぞ! と私は立ち上がった。外へ出てみると雨足は弱い。
  傘をさして登り始めた。しばらく登っていくと、2、3人の登山者に追い
 ついた。先客がいたのである。しかし、その中の一人は町を歩くような靴
 であり、服装である。聞いてみると、大手旅行会社のツア−で栃木県から
 きたのだという。この方は、バスガイドさんだった。すでに2、30人が先
 に登っているようだ。
  先頭と連絡をとろうとしているが、携帯電話が通じないので、仕方がな
 いから、登っているという。それでは、いっしょに、ということで、登り
 始めた。
  金時山は、乙女峠までは、ちょっときつい上りであるが、そこから先は
 少し楽になる。長尾山手前からは比較的楽な登山路が続いている。幸いな
 ことに、ここの山道は雨が降っていても全く滑らないことだ。したがって、
 町を歩くような靴でも登れてしまう。
  金時山の手前で、先行するグル−プの最後尾においついた。70歳前後の
 高齢者ばかりである。リ−ダ−は、全く後尾のことを考えていないらしい。
 全くのほおりっぱなしである。金時山の土は全く滑らないからよいものの、
 他の山ではこうはいかない。
  大手旅行会社のツア−は、どこもこうなのであろう。これを、時間延長
 したものが、日本式「エコ・ツ−リズム」ということになる。
 
  私の若いころ、登山をする人たちの間で、よくいわれていた「迷言」が
 ある。「なぜ、山に登るのか」と聞かれたら、「そこに山があるから」と
 答えるというものだ。誰が言い出したか忘れたが、著名な登山家の言に始
 まったと記憶している。
  登山者の間では、無二の名言とされているが、私はこれこそが登山が
 「山荒らし」に過ぎないことを物語る「迷言」というにふさわしい言葉だ
 と思っている。彼らが、ひたすらに頂上を極めることしか考えていないこ
 とを示しているからだ。
  今日日本で言われている「エコ・ツ−リズム」の考え方も、その行動も、
 この登山の考え方と酷似している。ひたすら、目的を極めることだけに集
 中し、その目的達成だけしか考えていない。
  「エコ・ツ−リズム」だといって野荒し、山荒らしをする前に、真の
 「エコ・ツ−リズム」とはなにか、環境とは何か、ということについて、
 旅行業者や市民の広義の教育が必要なのではないか、といわざるを得ない。
 市民の教育を置き去りにし、指導者の意識の低いまま、金儲けのために、
 ま新しい「エコ・ツ−リズム」という、市民受けしそうな語彙を率先して
 使い、森林破壊、環境破壊の原因をなしたのでは、本来の環境重視・環境
 優先の「エコ・ツ−リズム」の換骨奪胎ということになる。
  「エコ・ツ−リズム」の目的は、生態系の正しい理解にある。したがっ
 て、参加者の踏圧、盗掘、廃棄物により、生態系が圧力を受けることがあ
 ってはならない。また、「エコ・ツ−リズム」は滞在型観光の一形態であ
 るから、ゆっくり、のんびり、生態系理解のための活動が展開されなけれ
 ば意味がない。そのためには、的確な指導者も求められる。それは、生態
 系への人工圧を可能な限り緩和することが大切だからである。
  「エコ・ツ−リズム」という用語だけを振りかざし、経済的利益だけを
 狙うだけの観光では、真の「エコ・ツ−リズム」は成り立たない。これで
  は、宿泊しても、筆者の主宰する、日帰りの「エコ・ツア−」にも、内容
  では、及ぶまい。(2003/04/25)

 (注)旅行会社の「エコ・ツ−リズム」では、猫も杓子も「屋久杉」で
   あり、白神山系の「ブナ林」である。滞在型の環境学習という視点
   が欠落しているので、お目当てのところまで遮二無二登攀し、急い
   で出発点へ戻り、急いで次の目的地へ急行する。まことにお粗末で
   あり、寒寒としたツア−である。こんなものが「エコツ−リズム」
   なわけはない。
    このような内容で、旅行会社が金儲けのために、「エコ・ツ−リ
   ズム」という真新しい言葉を使い、人を誘おうというのであれば、
   その考えは間違っている。誰しもお金がほしい、豊かに暮らしたい、
   と思う心のあることは分かるが、そのために何をしてもよいのでは
   あるまい。自由とは何をしてもよいことではない。それは、憲法を
   読めば一目瞭然であろう。


  「山と森からのささやき」        
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  注意:文章中などに利用される方は声をかけてくださいね。
  執筆:大森 孟
  自己紹介:私は1935年生まれ。森林インストラクタ−で環境カウンセラ−
    

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